支える家族も大切に|介護者・支えられる立場から学んだこと

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家族の思い

高齢者や病気の家族を支える中で、本人だけでなく支える側のケアも大切です。

高校時代の訪問看護実習での体験と、現在自分が介護者・支えられる立場になった今の気持ちを通して、学んだことをシェアします。

高校時代の訪問看護同行で見た光景

介護実習で、訪問看護に同行したときのこと、ある高齢のご夫婦の家を訪れました。

そこは奥様が寝たきりで、ご主人が介護をしておられるおうちでした。

部屋に入ってすぐ、看護師さんが「〇〇さん、おでこどうしたの〜?」と声をかけました。

寝たきりの奥様のおでこには、大きな紫色のあざがあったからです。

それは生まれつきのものかと思うほど、丸くはっきりとしたあざでした。

でも、ご主人がすぐに答えました。

「ああ、それはオレが懐中電灯で殴ったんだよ!こいつが“水が飲みたい”ってうるさいからよ!」

その荒くとがった声と衝撃の告白に、私は頭が真っ白になり、震えました。

流石の看護師さんは、落ち着いてていねいに対応していましたが、私は涙が出そうになり、実習が終わるころには心がぐちゃぐちゃでした。

訪問看護実習で見た忘れられない一コマ

先生に教わった「理由を考える視点」

その日のうちに学校に戻り、わたしは介護を教えてくれていたY先生に話をしました。

先生は私の話を聞いたあと、こう尋ねました。

「あなたはどうしてそのおじいさんが『水を飲みたい』っていう奥さんに怒ったと思う?

「え、、、」

そんなの、ひどい人だからに決まってる、、、と思っていた私は、答えられませんでした。

すると先生が続けて聞きました。

「水を飲んだら、そのあと身体に入っていってどうなる?」

「、、、トイレに行きたくなる?」

「じゃあ、そのあとおじいさんはどうしなきゃいけない?」

、、、オムツ交換

その瞬間、ハッとしました。

おじいさんは、毎日毎日、奥さんの食事を作り、食べさせ、片付け、休む間もなく排泄介助をし、また「水が欲しい」と言われる。

その積み重ねが、怒りと疲れとなって噴き出したのかもしれない——。

支える人の苦労と自分の気持ち

もちろん暴力は決して許されません。

けれど、私は“かわいそうな奥さん”と“ひどいおじいさん”という単純な構図でしか見られなかったのです。

一方で、看護師さんや先生は「なぜそうなったのか」を考え、そこから「どう支援できるか」を探っていました。

あの時の衝撃が、今の私の原点です。

「支える人のケア」がどれほど大切かを、私はその日から考えるようになりました。

そして今、私は“介護をする側”になりました。

できることとできないこと、優先順位、体力と気力のバランス——。

その現実を、日々痛いほど感じています。

周りのアドバイスと自分の限界

最近、友人に「もっとやってもらったほうがいい」「先回りせず、失敗させてもいい」と言われました。

その言葉の優しさもわかります。

でもその時、私はつい口にしてしまいました。

「私にも限界がある」

できるときはできる。

でも、すべてを犠牲にして支えることはできない。

余力がある時、待てる時、そんな条件の中で、私はできる範囲のことをしているだけなんです。

そうしないと、私自身が壊れてしまうから。

だから私はときどき言います。

「悪いけど、今は私にやらせてね」

ヤシさん(夫)が自分でやりたそうな時でも、急いでいるときはそう声をかけます。

最初は待てても、結果的に怒ってしまったら、悲しいだけだから。

支える人のケアの大切さ

たくさん失敗して、いまのバランスを見つけてきました。

きっとこれからも、そのバランスは少しずつ変わっていくと思います。

だから、どうか周りの人には知ってほしい。

「なぜそうしているのか」を、まず聞いてほしい。

その人が何も考えずにしているのか、理由があってそうしているのか。

見た目だけでは分からない背景があるのです。

信じてもらえていないと感じると、本当に悲しくて苦しい。

そして——本人を支える家族のケアも、もっと大切にしてほしい。

本人だけを支えるケアでは、良い循環は生まれません。

支える人も、支えられる人も、どちらも「ひとりの人」として見てほしい。

あの日に学んだことが、今、自分が支えられる立場になって、より切実に、そして身近に感じられています。

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